ツツガムシの「Drop(ドロップ)」公演決定!


ツツガムシ第8回公演「Drop」の情報です。劇場は、新宿の「space雑遊」日程は、2020年8月14(金)、15(土)、16日(日)の3日間です。(時間は追ってお知らせします。)公演形態は、生観劇とオンライン配信の2パターンを選択頂けるように進めています。


思えば、3日間の公演というのは、同じ新宿のゴールデン街劇場で行った、2007年のツツガムシ旗揚げ公演以来です。そのゴールデン街劇場が、つい先日、コロナ禍による経営不能状態が長引き、息絶えました。


これが劇場の現実です。


まったく、いまだにツツガムシがこうやって活動しているのは、ゴールデン街劇場あってのことなのです。あの劇場を見て、私の貧困な想像力は膨らんだのです。私に作品を書かせたのも、その一回きりだと思って出演した本多と田中が熱演の勢い余ってカーテンコールで「ツツガムシ、またやります! 楽しみにして下さい」と叫んでしまったのも、やはりゴールデン街劇場の仕業なのです。


そのゴールデン街劇場から歩いて数分の、「spacep雑遊」は、まさに我々のホームグラウンドです。これまで都合4回の公演を行った愛すべき劇場です。この時期に、新宿で、演劇公演などもってのほかだ、無謀だ、と思われる方もいると思いますが、こんな時期、こんな場所だからこそ、感染者を出さずに公演を成功させる意味は計り知れないのです。


チャレンジ、トライアル、そういう口当たりのいい、勇壮な言葉を当てはめることもできますが、そんな気張りはありません。大切な人を大切にすることは、当たり前のことです。変化する状況に合わせて、これまでしてきたことをするだけです。皆さんと一緒に演劇を作り、楽しむ。この人生の喜びを、形を変えて味わおうとするだけです。


万全の対策を講じて取り組みます。5月の「無人島」でのリモート公演の経験も活かせることでしょう。参加してくださるスタッフ、キャストの皆さんの、この公演を成功させようという心意気は火のように熱い。きっと素敵な舞台になります。




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古傷

今年はよく降りますね。


「雨が降ると、古傷が痛むんだ....」なんてセリフを思い出します。ほら、よく映画の主人公が呟いたりしますでしょ。遠い目をして。


子供のころ、この「古傷」に憧れました。ああ、何だかよく分からないけど、カッコいいなぁ。俺も、雨が降ったときにだけ痛み出す古傷がほしいなぁ。そんなことを思ったものです。


その古傷は、戦場で作ったものであれば一番いいのですが、まあ、ヤクザに刺された傷でもいいし、銀行を襲撃して警官に撃たれた傷でもいいでしょう。それは決して、自転車で転んだり、犬に噛まれたりして作った傷ではないわけです。


私も歳だけは映画の渋い主人公と同じくらいにはなりました。なりましたが、古傷は....作れなかったようです。雨が降っても、まあ、どこも痛くなりません。毛がない(怪我ない)健康なオヤジです。寂しいかぎりです。遠い目をしているのは、夜更かしをして、少し眠いだけです。



先日、家に飛んできたヒラタクワガタ。このサイズは初めてです。デカいでしょ。一晩、一緒に遊んで、森の奥にある、我が秘密のクヌギに戻してやりました。


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なんてこった

今日は、この夜の数時間のために生きてきたようなもんだったんですが、咥えタバコで気持ちよく書き始めて数十分で、パソコンのバッテリーが切れてしまった....。


ああ、ファックミ~!


それで腑抜けのようになりまして、真っ暗なパソコンの画面を見ながら考えているわけです。こいつ(パソコン)は、俺がどんなに心の底から願おうと、コンセントをつないで充電しない限り、動き出すことはない。それがこいつの物であるゆえんだし、そこには何の疑いもない。ではこれが人ならばどうか。何も食わずに腹ペコになって、もう一歩も動けないというところまで追い込まれて、もうほとんど死の一歩手前というところに立たされたとき、やはり何かを食わなければ、機械と同じように身動きがとれないものなのだろうか?


いや、充電のされていないパソコンはどうにもならないけれど、飢えた人間はどうにかできちゃうんじゃないか。それこそ何も食わずに生きることも出来るんじゃないか。そう思えるのが人間の不思議なところで、それは動物には出来ないんだろうけど人間には出来るかもしれないって、真っ暗なパソコンの画面を見つめながら思っているわけです。ああ、人間の深淵ってのは、こいつ(パソコン)の暗い画面なんて比較にならないほど深いのだなと。


しかし、そういうことを、フル充電の携帯でダラダラ書いている俺とは、一体何者なのか? 


謎は深まるばかりであります。



おお、転倒無視!

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本日の書斎


本日の書斎は、とあるハンバーガーショップのテラス。薄曇りのせいもあるのでしょうが、この時期は、こんなところが過ごしやすいです。


ああ、本を読むのにもこういうところはいいです。読みながら、ときどき通りにぼんやりと目をやったり、うとうとしたり。もしかすると、



「すいません...あの、それ、もしかしたら...」「これは...ベルクソンです」

「やっぱり...私も今ベルクソンを読んでいて...」

「えっ、あなたも...」

「はい...。同じ人の本を...」

「となりどうしで...」


(二人、じっと見つめ合う。)



なんて、素敵な出会いもあるかもしれません。



写真は、書いてる途中で、ふと生命体の気配を感じ、おお! となった蓑虫。子供の頃は見つけては、容赦なく蓑を脱がしたものですが、減ってきているらしいので、蓑(みの)がしました。


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梅雨の晴れ間に


咥え煙草で執筆できる場所がほぼ全滅した昨今の喫茶店事情は再三お伝えしている通りでありますが、喫煙難民はこのようなところに追いやられているわけです。


まあ、そよ風に髪をなびかせ(嘘)、どんな喫茶店の出すものよりも旨い、自分で焙煎したコーヒーを飲みながら(本当)妄想を膨らませるというのは、なんだ、ちっとも悪くはないではないかと、思ったりもするわけです。


あ、気がつきました? またバイク乗り換えたんです。知る人ぞ知る、スズキがプライドをかけて作り上げた(10年前の)最高傑作、


GSX1400!!


こいつ、油冷エンジンなんです。もうね、ドロドロドヒューンってな感じです。


最高傑作のくせにちっとも売れなかったという点が、一番気に入ってます。


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我がフェティシズム


私にフェティシズムはあるのか。


まあ、どうでもよい問いでありますが、よい問いというものは、得てしてどうでもよいものです。


いくつかあるような気がいたしますが、当たり障りのないところで言えば、私は「折りたたみフェチ」かもしれません。


折りたためるものに、なんだか物凄く惹きつけられるんです。


折りたたみナイフとか、折りたたみ椅子とか、折りたたみ自転車とか、折りたたみカメラとか、折りたたみ絵本とか。


折りたたみ傘にもこだわりがありまして、以前ツツガムシの田中の車に、お気に入りの折りたたみ傘を置き忘れて、私物化される前に必死に取り戻そうとしたことがありました。


田中は、「これはそんなに凄い傘なのか?」と呆れていたのですが、そう言われて下手に肯定すれば、田中の眠れる「折りたたみフェチ」が目覚めて私物化されるんじゃないかと不安になり、「いや、そんなことはないよ...」なんて、ビクビクしながら嘘をついたものです。


立派なフェチですね。私が好きなのだから、みんな好きに極まってる。ただ気がついていないだけで、みんな折りたたみが大好きなんだって思ってる。我ながら病的な思考です。


しかし! と、人一倍冷静な私は思うわけです。


なぜ私は折りたたみに萌えるのだろうか。一体いつから、私は折りたたみフェチなのだろうか。そう自問自答して気がつくのです。「ああ、これはきっと幼児体験に根ざすものに違いない」と。そこで記憶遡ってみますと、見つかるわけです。フェチの起源が。



戦隊もの。



アニメ、実写を問わず、子供の私は気違いのように戦隊ものを愛していました。ロボットがパタパタと折りたたまれて、戦闘機に変身したりするのを、「なんてかっこいいんだ!」と瞳をキラキラさせて見ていたものです。ライディーンとかコンバトラーVとかキョウダインとか、もう、そっちの世界こそ私の現実でした。超合金とかミクロマンとか、もう、ああいうゴチャゴチャしたギミックが、身震いするほど好きでした。


とすると、やはりフェチの発生源は幼児体験なのか?


いや、しかし! と、人一倍聡明な私は思うわけです。幼児がみんな折りたたみフェチではないではないか。なぜ幼児の私は、戦隊ものに心惹かれたのか? と。


まあ、ここからが面白いのですが、これ以上遡ると帰ってこれなくなるのでやめます。


なにしろ、折りたためるのって、素敵だと思いません?(フェチ発言再び)



なるほど、思えば私、芝居なんかいつまでも飽きずにやってますが、戯曲なんてのは三島由紀夫さんの言によれば「小宇宙」ですからね。折りたたまれた世界みたいなものです。




最近乗ってませんが、折りたたみ自転車の最高傑作、ブロンプトン。ほんと芸術!(フェチ発言、三度)

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ツツガムシSF リモート再演!


サイエンスフィクションは、2010年2月に神楽坂にて公演したツツガムシ作品です。


あれから10年。いろいろあった気もしますが、何もなかったような気もします。まあ、髪の毛はあったのかな。なかったか? 結婚生活とか、どうだっけ? 戦争とかあったよな。いや、あれは芝居の話か。


なにしろ、書いた芝居が再演されるということは不思議なことで、サイエンスフィクションだけに「再演す!」、なんて駄洒落で片付けられない感慨もまたあるわけです。



で、本日、こっそりリモート稽古、覗かせてもらいましたが、面白かった! 


いや、熱いね。心が火傷した。


で、もってね。若い、才能にあふれる俳優達の中で、10年前にも出演していただいた北山雅康さんが同じ役を演じて下さっている。これほど嬉しいこと、俺の中では、なかなかない。


ホントもう、いろいろなことに感謝です。




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「無人島」に寄せて


夢の中に「死者」が登場するといつでも、私は、その相手がすでに死んだ人であることに気がつかない。全く彼らが生きていたときと同じように彼らを受け入れ、向き合ってしまう。


これは自分の迂闊さのためだとずっと思っていた。夢の中の話でもあるし、ぼんやりしていたとしても仕方がない。まあそんなもんだろうと思うばかりであった。


しかし、よく考えると不思議である。あれほどまでに強烈な死別の経験が、夢の中では露ほども意識されないのである。とるに足りない些末な体験が案外具体的に意識されることがあるにもかかわらず、死者を死者として意識出来ないというのは、本当に、私に落ち度があってのことか。


もしもその原因が「私」自身に依拠するものでないとしたら、夢の形式にこそ、その秘密がかくされているに違いない。たとえば、夢の世界には生と死の区別がない、というような。



ある男の見た夢の話をしよう。


夢の中で、男は親しい人たちと歩いていた。その中には彼の死んだ父親もいた。しかし彼は父親がすでにこの世を去っていることに気がつかない。当たり前のように、ほかのまだ生きている人たちと同じように父親の存在を認めている。やがて父親は一人だけ足早に入り組んだ道を先に進み、見えなくなってしまう。男は父親の姿を見失うが、どういうわけか父親がどの道を進んだのかが分かり、あとを追うように一人歩みを進める。そして、ようやく父親に追いつく。父親は、立ち止まって、男をじっと見つめている。男は少し決まりの悪い思いがし、目をそらし、早く他のみんなが追いついてくれないかと後方に目をやる。しかし、さっきまで一緒にいたみんなの姿は見えない。それなのに、彼らの楽しそうな声だけはすぐ近くに聞こえる。男は父親と二人で、じっとその場に立ったまま、彼らが来るのを待っている。



夢がそう遠くない死期を暗示していると言えなくもない。男がそのことに気付いているかどうかは定かではないが、少なくとも彼は、いつ死んでもいいような心持ちでずっと生きてきた。夢判断など必要のない男だった。彼はいくつかの芝居を書いて、いくつかの人と出会い、その中にはいくつかの恋もあったが、まあそれだけの男だった。


彼はとっくに死んだと言うものもあれば、いや、まだ、ぐずぐず生きていると言うものもある。まあ、どちらでも同じようなものだ。



今日は久々の雨ですね。


雨降れば誰でも濡れるただ傘の

あるかなしかの別こそあれど


               十三


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小人閑居して不善をなす


戯れに指に落書きしてみれば

若き日の我そこにありけり



数週間前には、リモートで演劇の稽古やってるみたいだぜ、なんて笑ってましたけど、気がつけば自分も真剣にやっている。まあ、そんなもんです。何事も。可能な環境の中で最高のものを創るしかない。




日向の某よ、失敗を恐れるな。お前に出来るのは、失敗だけなんだぜ。

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虫けら

ああ、


否定されればされるほど、確信が深まるというのは面白いね。


分かってたまるかというこの感覚は、子供の頃から変わらないけどね。


人はさ、

どんなに美しく着飾っても、どんなに偉そうにふんぞり返っても、だれでも、鼻の曲がるような悪臭を放つものを腹の中に蔵して生きている。


オシャレな連中はさ、美食だなんだって、お上品にお食事してるけどね。「出すもの」には目を背ける。それだってさ、もとをただせば口から入れたんだろ? 理屈で言えば、「出すもの」を食ってると言えなくもないんだよ。


だから、はっきりと言えるんだ。


人間存在の本質的問題は、そこにはないと。


目に見えるものは現実の一部でしかないって。




去りゆく一切は比喩に過ぎない。



もう、ゲーテに捧げるよ。


何もかも。



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無人島


新しいものに、さほど魅力を感じない。まあ、そんなもんだろうと思うばかり。むしろ、新しい! なんて主張すればするほど、嘘くささ、胡散臭さを感じてしまう。


錆び付いていては困ることもあるけど、ホコリを被っているくらいが丁度いい。背伸びした、浮ついた新さよりも、どこか開き直ったような、腰の据わった古臭さに、感興をそそられる。


同じ創作でも古典に、同じバイクでも中古車に、同じ壺でも縄文土器に、深い味わいを覚える。


最先端科学なんて、随分偉そうに幅を利かせているけれど、実は人間を退化させている、つまらなくさせているだけのものなんじゃないかって、最近よく思います。AIと棋士が対戦する将棋なんて、あんなもの何が面白いのかと思う。映画の特殊撮影も、どこか覚めて見ている自分がいる。ドラマを殺しているだけなんじゃないかって。最先端西洋医学なんてのも、そりゃ長生きできるかもしれないけど、飲めば治る、切れば治るって、人間の物質化でしょ。人間の本質である精神の軽視でしょ。この世が全て。死んだらお終いってスタンスじゃない。プラトンの時代から退化している証左ですよ。


まあ、こんなこと書くと怒られるのは分かりきっているけど、そう思うんだから仕方ない。思うことを書けないようじゃ生きてても仕方ない。それで傷つく人がいるなら申し訳ないと思うけど、それ以上でも以下でもないな。



と、まあ、そんな朗読劇をやってみます。



ふうん



という方は、



朗読劇「無人島」



最先端技術、ズームを使って配信します。


是非、ご覧ください。




先日、発掘した縄文土器。ヘンリー・ムアーの彫刻を思い出します。

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不勉強には訳がある


足元に花弁を運ぶ蟻ひとつ

巣に飾るのか旅に出るのか


                 十三


桜の散る頃。うだつの上がらない一人の男が、ふと足元に、淡い桜の花びらを引きずっているありんこを見つけてこう思う。ああ、こいつはおっちょこちょいだな。そんな食えないものを持ち帰ったら仲間に笑われるぞ。おい、よしておけ。

いや、待てよ...。もしかするとこいつは、この花びらで暗い巣穴を明るくしようとしているのではないか。あるいはこいつを舟にして、どこか遠くへ旅立とうとしているのではないか。ああ、こんなに小さな命にも、仲間への思いやりがあるのだなあ。自由への渇望があるのだなあ。



と、まあ書いてみましたが、調べたところ、どうやら蟻は、桜の花弁も食べるようです。少しがっかりしましたが、よく考えれば我々も塩漬けにした桜の花弁を和菓子などの香り付けとして口に入れています。蟻が人間から、桜の花びらなんか食いやがって、なんてケチをつけられる筋合いは少しもないのです。


こんな具合に、知識がなかったために想像がむくむく膨らんでしまった、ということは誰にでもあることでしょう。それは子供を見れば明らかです。しかし、それを理由に、己の不勉強を正当化しようとする私のような手合いは、ろくなものではありません。49にもなって恥ずかしい限りであります。



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土器日記


ここ数日、バタバタしております。


ゴロゴロもしてるか...。まあ、ニヤニヤもしてるし、ウトウトもしてる。あ、それからヒヤヒヤもしました。してないのは、ケチケチとイチャイチャくらいですな。



さて、脚本を今夜中に仕上げなければならないという、その辛い現実から目をそらし、つれづれなるままに、そこはかとなく雑文を書きつけております。吉田不兼好です。

(いいから書けよ、脚本!)



ああ、しんど...ん...


シンドバッド


バッドマン


マンツーマン


マンドリン


ドリンクフリー


フリーダム!!(メル・ギブソンっぽくね)




時速275キロで筆を走らせ続けるとクラクラします。しかも在宅執筆となるとクサクサもします。ああ、喫茶店で書きたい。咥え煙草で書きたい。モクモクの中でゲホゲホして、ヒエヒエのアイスコーヒーをストローでチューチューしたい。ズルズルやりたい。



そして、そんな中、


明日は一人、発掘作業をしないといけない。まあ、いけないこともないんですが、私の中の古代への憧れが、全てを捨てて掘りまくれと、勤勉な私に命じる。私は弱い。少女のように無力だ。しかし憧れに、勤勉がどうやって抗えと言うのだ。そんなことができていたら、今頃俺は、億万長者だ。(多分ね)



あ、シャベル折れちゃったから買わないとな。




これは数日前に出土した石器。いや、太陽の光を受けて怪しく光るこいつの肌が見えたとき、ホント、目眩がしました~


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コロナ記念日


好きだよと口の動きをしてみせる

マスクの中を君が見えれば


                十三


解題

長引くコロナ騒ぎのせいでいつまでも愛しい人の顔がよく見えないのは残念なことであるなあ。戯れに、目を見つめて「好きだよ」と口だけ動かしてみても、愛しい人はちっとも気がついてくれない。僕の目を見つめているのになあ。目は口ほどにものを言わないものであるなあ。



俵万智ふう(?)に歌を詠んでみました。

短歌も面白いですね~



マスク生活、なんか疲れてきました。折からのマスク不足で、同じマスクを付け続けていると、同じパンツをはき続けているような気分になります。


あ、先日、ある女性が上等な生地の、リボンのついた素敵なマスクをしていたのを見て、いろいろマスク業界も工夫しているのだな、と感心し、ついいつもの調子で、「下着みたいなマスクですね。僕が付けたらパンティ被ってるみたいになるなぁ」と口にしたら、「林さん! それ、セクハラですよ」と笑いながら(しかし、目を少し尖らせて)言われてしまいました。ああ、これが「セクハラ」か、と思いましたね。悪気がなくても、軽い冗談のつもりでも、親しいつもりの間柄でも、まあ「セクハラ」と言われてしまえばそれまでです。



「それセクハラです」と君が言ったから4月7日はコロナ記念日


                 俵マジ


そして、「それ、セクハラですよ」と言われるのは、結構びっくりします。満員電車の中で、密着状態の女性から、「この人、痴漢です」って言われるのもこんな感じなのでしょうか。いや、日本の男性諸君、気をつけなければいけません。性犯罪者にならないように、マスクは下着だと思い、満員電車はホールドアップで過ごしましょう。



最近釣りにはまっている娘と。のどかですな~
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健康増進法


ダブルフィルターで

ニコチンも

コロナも

冷たい視線も

シャットアウト!



はは、カッコつけて自撮りしてみました。


マスクをしてるのが当たり前の世の中になり、そういう中でマスクをしていない人を見ると、きっとパンツをはいてない人のように見えるのでしょう。

「あいつ、お口丸出しでウロウロしやがって! ノーパン喫茶じゃねえんだぞ!」(50代男性)


怖いですね、習慣って。 

それから、
健康増進法って、ネーミングも

悔しいけど、
ホラーセンス抜群

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ホシノ、お前もか


本日も良い天気でありました。


こんな日は、何とか理由を見つけてバイクに乗ります。で、来月からいよいよ全面禁煙になってしまうホシノコーヒーに別れを告げに行くことにしました。


オリンピックに合わせてだかなんだか知りませんが、私の「書斎」が軒並み全面禁煙になっていきます。寂しい限りであります。全面禁煙化もオリンピックと足並みそろえて延期か中止になってくれるといいのですが、タバコ吸いはコロナで逝きやすいとか言われはじめてますから、まあ諦めましょう。



喫煙者 そこのけそこのけ 五輪が通る


                喫茶


でも、タバコとコーヒーって相性いいんですよ。この二つがあって鉛筆握ってると、いかにも大事なことを考えているような気分になります。ああ、俺は今、人類を代表して世をはかなみ、嘆いているのだ、みたいな。(あくまで気分です)



本題に戻ります。


バイク乗りはよく、車体にテントウムシのステッカーを貼ったり、カエルのキーホルダーを付けてたりしてますよね。(してるんです)あれはバイク乗りに蟲好きが多いということでは全くないのです。あれはですね、「転倒無視」であり、「(家にちゃんと)帰る」という語呂合わせで、御守りのようなものなのです。知ってました? 知りませんよね、そんなの。知るかって話です。


ではありますが、しかしです!


実は、私にはそんなものは必要ないのです。


なぜなら、私自身が、御守りだから。



ハゲ→「怪我ない(毛が無い)」



これが本題かよ! というお叱りの声が聞こえてきそうですが、これはこれでよいのです。人生もまた、往々にして、本題に入る前に終わっているものですから。(ふう。一服)



バイク乗りの皆さん。


いい季節になってきましたね。


ご安全に~




偉いですね~。鳩もルールは守るのです。

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35年振り


太陽も死も、ずっと見つづけられない。


          ラ・ロシュフコー


我が心も姿見も、あまり見つづけたくない。


          日向十三




こんばんは!


ここ何日か、暖かい日が続いてますね。バイク乗りにとっては大変喜ばしいことです。いつまでも走り続けたくなります。まあ、信号では止まりますが。



さて、数少ない読者の皆様。


今月15日に発売の、総合演劇雑誌テアトロ4月号に、小生の拙文が掲載されています。「私の修行時代」というテーマで書きました!


考えてみると、雑誌にこれだけまとまった記事が載るのは、14歳のときにベストバイクという雑誌に体験記を投稿して以来かもしれません。35年振り。うーん、マンダム。


是非、ご覧ください~



しかし、これを読んだ99パーセント以上の人は思うんだろうな。「ところで、このハゲは何者なんだ」って。(素敵な写真入りです)


はは、まあ、それはそれで、いとをかし、ですな~




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野田秀樹氏の意見書


今日、文献に当たるために町田の図書館に行ったのですが、「長期休館」とあり、愕然となりました。公共施設ですから他も似たようなものでしょう。はあ...(溜息)


平日にもかかわらず、町は楽しそうな若者(中高生)に溢れ、老若男女、一様にマスクをつけています。ふと、香港民主化デモの光景を思い出しました。目的は違えど、彼等もマスクをつけていましたっけ。


我々の憎き敵は、見えないちびっ子コロナくん。このちびっ子は、すでに我々の中に相当数潜伏しているとの噂もあります。我々は、彼等を隠匿している疑いをかけられぬよう必死です。ちびっ子が隠れている場合、咳が出ることがあるらしいので、皆、咳が出そうになると、命懸けで堪えるのです。かくいう私も、今日、本屋で咳が出そうになり、必死に堪えました。しかし、堪えきれるものではありません。堪えたばかりに、かえって変な咳をしてしまい、一斉に周囲の注目の的になりました。あいつは怪しい。嫌な咳をしたぞ。なぜ外出してるんだ。ハゲめ。非国民め。吊し上げろ。焼き殺せ。


まあ、少し大袈裟に書きましたが、こういうことは人類の歴史の中で繰り返されてきたんです。まあ、ちっとも変わりませんね。いや、ある意味では劣化してます。人間は。



野田秀樹さんの、政府にあてた意見書がいろいろ言われているようです。この言葉(意見書)に対する否定的な反応を幾つか読みましたが、これらの人はどれだけ野田さんの言おうとしていることを真剣に「考えた」のでしょうか。ほとんど反射的に感情を爆発させているようにしか思えません。演劇人の優越意識だとか、演劇より命の方が大切だとか、スポーツを見下しているだとか、苦しいのはみんな同じだとか。どれもこれも言葉の表面しか見ようとしないから、野田さんの本意を見落としています。多分、野田さんを「一芸能人」としてしか見ていないためだと思いますが、まあ、そういう人はいつでもどこでも「人」を自分と同格とみなします。そして、「雲行き」を慎重に読んで、匿名でやじを飛ばすのです。「炎上」という現象は、どれも似たような構造です。深く考えることの集団放棄です。


私は野田さんの演劇についてそれほど詳しいわけではありませんが、常に、人間の自由な精神が圧殺されそうになった場面でこそ上演する価値のある芝居を書き、演出し、演じてきた人だということは知っているつもりです。表面は娯楽を装い、その奥底に痛烈な批判精神があるからこそ、国境を越えて高い評価を受けているのです。このことについては、一点の疑いもありません。


「演劇の死」とは、今、この数週間の話などでは有り得ないのです。ドイツ占領下のパリで公演されたサルトルの「蠅」という芝居は、フランス人にも、ナチスにも、ぞれぞれの解釈において喝采されたという話があります。そういう凄みを、気概を持った作品を書き、上演するような作家が、果たして今の日本にどれだけいるでしょう。いませんよ。本当に。ただ、野田さんなら、いつでもどこでも、同じようにやるでしょうね。そういうことも、見ていれば分かります。


自分の不勉強を理由に、教師の言葉が分からない、間違っていると叫ぶ生徒の愚かさに対して、教師は言葉を失うしかありません。そのうち分かるよ、或いは、分かってたまるか、と心の中で呟くだけでしょう。


ええ、きっと野田さんは黙っていられるでしょう。ですから、なんだか黙っていられなくて勝手なことを書きましたが、もともとは、野田さんの言葉に対して、「命の方が演劇より大事だ」という声があったので、それは違うと言いたくなったのです。



精神の自由こそ命の本質だ。ぬるかろうが熱かろうが、どんな状況であってもそれを曲げるわけにはいかない。ウィルスでも、何であっても、人間は殺せない。



私は野田さんの意見書に、演劇にたずさわる一存在としての覚悟の表明と、広く人間存在に対する深い愛情、それから、ちょっと言い表しがたい不吉な直覚、のようなものを感じました。




大庭城址公園の大好きなクスノキ。こんな人間になりたい。

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ドラマが欲しい


確かスタインベックだったと思います。旅に犬を連れていると、危険を知らせてくれるだけでなく、人から声をかけてもらうきっかけにもなる、そんなことを書いていました。


街中で四六時中声をかけられたらたまったものではありませんが、時々そういうつながりを犬が作ってくれるというのは、なるほど犬にしか出来ないことかもしれません。事実、私もかわいい犬を連れた男に声をかけたことはありますが、かわいい女を連れた男に声をかけたことはありません。当たり前のようで、よく考えると不思議です。犬も私も。


子供の頃は捨て犬なんか結構ウロウロしていました。連れて帰りたくても、そういうのを受け入れてくれるような家庭ではなかったので、諦めるしかありませんでした。


で、やっと、そういうことができる年頃(49)になった。よし、出てこい捨て犬! そんな気分でいつも歩いていますが.......いませんね、捨て犬。そういう世の中になっていました。いや、いるんでしょうけど、私の目の前に、ワンワン、クウーンと、そういうふうに現れない。保護犬貰えば? とかそういう話ではなくですね、偶然のドラマを味わいたい。恋愛と一緒でしてね、結婚相談所に行けばいいじゃん、というのとは、また違うわけです。まあ、どうでもいい話です。


なにしろ、いろいろな意味でドラマが減りました。犬に限らず。


コロナウィルスなんかも、大騒ぎになっておりますが、なんか普段隠れてよく見えなかったものが馬脚を現したと言いますか、お口隠してココロ隠さず、といった寒々とした光景がそこここで見られます。電車の中なんか、咳一つで嫌な目で見られたりして。でも私は慣れてます。喫煙者ですから。「そのお前の吐いた煙で私の大切な寿命が5分縮まるんだぞ!」って、そういう憎悪の目で毎日、見られてます。


50年前なら、ウィルスにこんなに病まされる必要なかったと思います。何も知らずに平穏無事に済んだかもしれません。「おじいちゃん、大往生だったね~(^^)」みたいな感じに。


最先端科学という名の新興宗教国ジャパンのお節介おばちゃんが、タバコ駄目よ、コロナ怖いわよ、健康が一番、外出しちゃ駄目よ、死んだらお仕舞いよ、とヒステリックに叫びます。


イベント、公演を中止にするのは簡単ですが、なんとなく右にならえでやられたらたまんないです。特に演劇は、なんとか公演につなげる努力をしてほしい。そして、やむを得ず中止になった場合も、次につながる動きを見せて欲しい。大変でしょうけど、頑張って下さい、主催者さん。


役者は、何の補償もなく、命削ってやってます。舞台が中止になるのは、世界が消えるようなものです。



新しいバイクで湘南平。デートスポットは一人で行くのがよろし。(強がりじゃない)

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さらば


「雲はね、タバコの煙が集まって出来ているんだよ。人類は何千年もかけて、大空に浮かぶ芸術作品を創造したんだ....」


こういうことを言われ、真剣に空を見上げるのは、三歳児と、詩人くらいなものだろう。詩人ならば、「全く、その通りだ」と、深いため息をつくかもしれない。私が、思い付きを戯れに口にしたことを、恥じるほど、深いため息を。



今日、いつものように、ぼんやり考えごとをしようと、行きつけの喫茶店に入った。そしてやっぱりいつものように、タバコを吸うポーズをとって、喫煙席に進もうとした。


そのときである!


中年のウエイトレスに、「カンジェンティンエンレス」と言われた。


「カンジェンティンエン....レス?」


ああ、完全禁煙か。


状況にそぐわない言葉に、一瞬、意味が分からなかったが、いやいや、俺は喫煙席に行くからいいんだよ。禁煙はそっち。喫煙はこっち。そう思い、笑いながら、席あいてるじゃんと、数歩、歩みを進めると、中年ウエイトレスは、ネズミのように素早く私の前に回り込み、さっきよりも、やや鋭い目つきで、確認するように念を押した。「いいんですね、完全禁煙ですけど」と。


そこで私は、初めてガラス張りの向こう側に広がる光景をはっきりと見た。かつて喫煙席だった広々とした一画には、子供を連れた家族が点々と....。


絶句する私を見つめる中年ウエイトレス。その顔は、気の毒そうなようでもあり、ザマアミロと舌を出しているようでもあり、これを機にタバコやめれば?と言いたげなようでもあり、二の句が継げぬとは、まさにこのことだなと、負けた訳でもないのに、何だか敗北感一杯で私は店を出たのである。



そんなわけで私は今、コメダコーヒーではなく、ホシノコーヒーを飲みながらこれを書いている。そう、コメダでの懐かしいあれやこれやを思い出しながら。


山盛りのソフトクリームの乗っかったクリームコーヒーに、「でかいね!」と驚嘆する私に、「ジャンボでございます!」と元気に応えてくれたウエイトレスのお姉さん。これはマニュアルの言葉なのかなと思い、違うコメダで同じことを言ってみたら、若いお姉さんの顔がすっと曇った。(このお姉さんはちょっと大柄な人だったので、自分がでかいと言われたと思ったのでした)そんなことを思い出しながら....


ああ、またどうでもいいことを書いてしまった。「人は、書くべきことしか書くべきでない!」なんてカッコいいことを言いながら。



スミマセン、数少ない読者の皆さん。



そして、さらば、コメダコーヒー


と、我が愛機、XJR1300(写真)




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