おりん


先日、生まれて初めてオープンカーに乗りました。どんな感じなのかなあ、と長年想像していたので期待が大き過ぎたのかもしれませんが、まあ、こんな感じか、といったところでした。普段バイクに乗っているせいもあるのでしょうかね。比べるのも野暮ですが。


それよりも、加速したり曲がったりする度に身体に掛かるGを支えるようにシートがブリブリ動くのが面白かったです。いいよ、便通(ベンツ)そんなに気を遣わないで、って言いたくなりました。


思えば、車もバイクもそういう余計なものがごちゃごちゃ付くようになりました。これ、スマホを手にした人と向き合っている感じにちょっと似ています。私が、ただ走るだけの機能に特化したスッキリしたバイクに心を惹かれるのと、古典的な読み物に心を惹かれるのは、同じ心理によるものなのかもしれません。


古典と言えば最近、深沢七郎の楢山節考を読みました。まあ、こういう深い感動を味わえる作品はなかなかありません。正宗白鳥が「人類永遠の書の一つ」と評した作品。


こういう作品を読むと、なんだか全てを投げ出したくなります。ボクシングでボコボコに殴られて白目を剥いてKO負けした後に、「もう、情けない人ねっ!」って、恋人に振られて、それで海に行ってバカヤローって叫んだら女子校生に笑われた、みたいな、そんな気分です。惨めですけど、でも、これがまあ、俺なんだよなって認めるしかない。まあ、そんな感じです。分かりますよね、あなたなら(ちょっとドキっとしましたか。え、見えるのって。はは、見えません)


姥捨てというと、貧困や、そこから発生する風習を忌むべきものとして捉えがちですが、全くそう見えないのがこの作品のオソルベキところです。棄てられる「おりん」に悲壮感はひとかけらもない。死出の旅を心待ちにし、その日を早めようとさえする。この「おりん」の、ある種あっけらかんとした心象とは一体何であろう。彼女の幸福な臨終を、無知のための悲劇的幸福と一蹴していいものだろうか。インドでは伝統的に、死期の近づいた老人は食事をとるのをやめ、自ら黄泉の国へ旅立つ準備を始めると何かで読んだ覚えがありますが、いずれの場合も自ら「歩み」を進めるわけです。死にゆく者にとって、死とは忌み嫌い、恐れるものではない。そんなものであるはずがないという一致。


そう考えると、なる程、楢山のカラスの群れははちっとも不気味ではありません。むしろ親しみさえ覚えます。息子の「辰平」にはそれが分からない。分からないのは、母親が愛おしいからに違いないのですが、では、この現実原則に縛られた愛とはいかなる愛か。


背板に母を乗せて楢山を登る息子の姿が、どこか神話性を帯びるのは、どう考えても血縁の愛を超えたものがあるためではないか。


うーん、よくわからないのでご興味の湧いた方はご一読のうえご教示下さい。(夜10時ころ読み始めますと、夜中の1時くらいに読み終わる長さですから、いい感じで眠りにつけます。多分)



楢山節考に興味津々のET。

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