伊丹十三


  野良猫の尻に張り付く枯れ葉かな


                十三


暖かな秋の昼下がり。黒い野良猫が尻に枯れ葉を付けて歩いているよ。長閑なものであるなぁ。俺も仕事をサボって、積もる枯れ葉に身を沈めて、空でも見上げたいものだなぁ。



先日、久しぶりに映画を見ました。居酒屋兆治。1983年の作品。高倉健。


これも、小説同様、昔、手にしたものをもう一度味わいたくなって、何となく。


当たり前ですけど誰もマスク付けていません。三密の居酒屋。狭いカウンターに、ギュウギュウ詰めになって、みんな唾をぶっ飛ばして大声で騒いでいます。やっぱり、あれがノーマルです。ニューノーマルなんて簡単に言うべきじゃありません。放射能のときもそうでしたが、原発もコロナも、それから川辺川のダムなんかにしても、政治家や専門家、資本家に預けられる問題であるはずがない。そりゃ答えは簡単に見つかりませんけど、人間の作った問題ですからね。解決するのもやっぱり人間しかない。大騒ぎする客を静かに見つめる寡黙な兆治の、高倉健の生き方をぼんやり眺めながら、ああ、ここに答えがあるじゃないかと思いました。



亡くなった人達に会えるのも映画の楽しみの一つです。高倉健、大原麗子、伊丹十三、大滝秀治、佐藤慶、東野英治郎....。



伊丹十三が出色。


ホント最初から殴りたくなる役どころです。でも、それだけではない。あの河原という男にも愛がある。それはきっと伊丹十三という存在と切り離せないものです。観客が、あれは私だ、と思う役です。俳優が、あの役を自分もやってみたいと思う役です。


演技技術ってなんか特別なものみたいに思われたり思わせたりしている節がありますけど、そんなものは実はありません。歩き方を学ばないのと同じ意味で、人は勝手に歩く(生きる)のですから。そんなものないのですから当然、そこに演技の本質はない。演技技術というものの存在理由は、それをいくら学んだところで「無駄」だと気がつく一点です。技術から解放されるために技術を学ぶ。おかしな話ですが、まあ演技に限った話ではないでしょう。その時がくるかこないかの違いです。(あ、少し前に、林さんは伊丹十三が好きだから十三なんですよね、と言われました。はは、まあ好きですが、名前は日当たりの良い13階に住んでいるから日向十三と、適当につけたものです~)



一人の女を、三者が三様に愛した物語。


自分の書くものは、20代の頃に見たこの作品からも影響を受けていたようですな。



病院の上に、妖しくかかる月。美しい。


P_20201130_190049_vHDR_On.jpg

この記事へのコメント